教育の奇跡
消防団長が農機具に手巻き込まれて右手4本の第一関節全部持ってかれたらしい
本当に怖いわ、一瞬で今まで当たり前にあったものが無くなってしまうから
その点、もう亡くなってしまったけど「不死身の幹ちゃん(マンチカン)」は本当に逞しかった。片腕が無くなっても、片足が無くなっても、しばらくピンピンしていた。
無くなったものを考えるのではなく、今あるものでどうするか、という姿勢
本当にかっこいい生き様を見してもらいました
僕も電動ノコギリや、チェーンソー、他にも刃物類はよく扱う、
本当に気をつけなくちゃ
って思っていた矢先に、鉈で人差し指を切るっていうね(笑)
血がドクドクと止まらず流れて焦った
スパッと切れたからすぐにくっつくと思うけど
ほんと少しでも力加減間違えたら人差し指無くなっていたな
とにかく、いつ大怪我してもおかしくないものを、普段から扱っている(刃物、機械、自動車などなど)ってことをもう一度認識しなおさなきゃな
それでは今日の本題
教えるということは、非常に問題の多い事で、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、少なくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割を果たせます。無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間は常に十分知っているのです。誰かが教えるものとしての立場に立つ限り、その人が役に立たないということなど決してありえません。
「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。
「だったら、誰だって教師になれるじゃないか!」と思うかもしれない。
でも、実際その通りなのである。
内田さんの言葉を借りたが
僕も誰だって、誰かに対して教師になっていると思っている
実際に学校の教師よりも、たくさんのことを教えてもらった
それが主要5教科とか、学校の勉強の話だけってわけではない
自分が得意とすることや経験から得たものから、その情報を欲しいと思っている人はたくさんいるはずだ。
ということは、教師というのは「誰でも一定の手順さえすれば、教える仕事は果たせる」というように今の学校教育も制度設計しなおしてほしい
様々な職業の人達が、自分の経験、知識を基にした授業をしてくれる
その中に、主要な5教科も混ぜてくれる
考えるだけえるだけでも最高な学校だって僕は思う
そういうことが「教わるもの」が「教えるもの」を知識において、技芸において凌駕することが日常的に起きる「出力が入力を超える」という奇跡が起こっていくんだと思う。
だが、今日の「学校教育」の危機は、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもない。そうでなくて、教師たちが教育の奇跡を信じるのをやめてしまったからだと思う。
教育とは代価に見合う商品・サービスとして提供しているビジネスの一つという観念に染まった。
その結果の一つとして、たくさんの夢を持たない学生や学び、労働から逃走する学生、わからないを良しとする学生が増えていってしまったのだと思う
「この世界には自分の理解を超えた知識や出来事が存在する」という楽しみを教えてもらってないからだ。
一度知ってしまえば、そこから人間は人間的に成長してゆくはず
ここまで読んでくれてありがとう
それではまた明日。