K(危険)Y(予知)ではないほうのKYな話

僕が小学生だったころだろうか

 

KY(空気が読めない)という言葉が流行りだしたのは

 

今ではあまり多用されることはなくなってきたがそれでもその思想は根深く残っていると思う。

 

なぜKYが出てきたかっていうと、今日来ているお客さんと話しているときにKYの話があったから、ただそれだけ

 

で、「今日何書こうかなー」なんて思っていた矢先に舞い込んできた話だったので今日はこの話題で話を進めさせてもらう

 

 

実際に「空気が読めない人」は身近にもいると思う

変なタイミングで話し出す人とか、周りが全然見えてなかったりとか

 

でも僕らが使っていたKYは確かに上記の通りの意味も含まれるが、

本質的には自分たち仲間内からの「排除」の表現でもあった

 

「排除」の表現に対するレッテルであった

 

KYな行動によって出過ぎた釘は、たとえ今まで仲間だった人からでも打たれる

そうなることの恐怖から、学生はみなある一定のラインから踏み出ないように無意識的に自分に圧力をかける。

 

そこには変なルールがあった

勉強や運動能力で抜きんでていても何も言われない、むしろ学校生活内ではいい方向に作用するが、それ以外の分野(例えば趣味)がほかの人とは一線を画す場合は「排除」の対象だ

 

自分のテリトリー内に異分子が入ることを過剰に嫌う傾向にある

だからその存在を「空気が読めない」という無茶苦茶な理由をつけて追い出そうとする

 

例えばこんな感じ

A「俺らが決めた秩序を守ってくれてるやつは本当に空気が読めてるよ、だからこれからも仲良くやっていこうぜ。でもその輪を乱す奴って空気読めないよな」

B「そういえばあの奥の席の奴、暗いしノリも悪いから空気読めないよな」

C「なら排除するか」

D、E、F、J、H、I「OK」

 

ってな具合だ

 

とりあえず理由付けとしてKYが用いられる

KYという大義名分ができたところで次は「排除」だ

 

「排除」されないためには仲間が必要

時には自分を擁護してくれ、時には盾となり身代わりとなってくれる存在

 

そういう思考の流れから一人では生きられない、つねに友達といないと、、、

「仲間意識」というのが変な感じになってきている気がする

 

これは今の教育が作り上げてしまったものだ

平均的な生徒を量産して、一人では生きられないように仕向ける

 

先輩の言葉を借りると「平和ボケしてんだよ!」

 

まさにその通り

鋭いご指摘ありがとうございます

 

想像してみよう、もしこれが戦時中だったら、明日生きてるかもわからない状態だったらそんなこと言ってられないよね。

 

たしかにのほほんとしすぎている気がする

特に地元の静岡

(静岡の人見てたらごめんなさい)

 

それでは今日はここで

 

おやすみなさい