「無謬性」って難しい言葉ですね
今日のブログなに書くかなーなんて考えていた
ほんとブログ書き始めて思ったけど、「その日に書くテーマ」ってのは、毎日決めていたわけではない、自然にこれなんだなって思うものが来るのが結構あった
本読んでいるときや、活動しているとき、パソコンの前に座って自分のブログページを開き、なんとなくさわりの部分書いているときに「あ、これだ」ってなる
でも今日みたいに頭で何書いたらいいんだろうなんて考えているときなんかは、ほんとに思いつかないし、気が付いたら時間が過ぎている。
思考の泥沼に今ははまっている真っ最中だ(笑)
まあ、いつまでもパソコンの前に座ってネタ探していても進まないから、こうして書き始めたわけだ。
というわけで、本を読んでいるときに出てきた「無謬(むびゅう)」という言葉をテーマにすることにしました!!
無謬
”理論や判断に間違いがない事
謬(びゅう)は、”あやまってすること”、”あやまち”
それが”無い”ということだ
「個人の無謬性」なら「俺のやっていることに間違えはない」
「国家の無謬性」なら、「国家の考える事、やることに間違いはない」ってってことだ
あと審判の無謬性は本当にまいった。
ストライクゾーンの広さが違うし、アウト、セーフの判定もそれぞれ(笑)
でも、誤りがないように努めるべきであるという意味合いにもとれるため問題はないように思われる。
しかし,現在においてこの無謬性という言葉は拡大解釈されるようになってきている。曰く「誤りを認めてはならない」「責任を取らなくてもよい」という風に取り憑かれている。
自分の無謬性を強調しようとする人は「これまでの自分が犯した失敗とその被害・これから犯すかもしれない失敗とその被害」を過小評価してしてしまう。
「自分が犯している失敗にも共通するパターンがあるのではないか?」とうい最も生産的な視点を塞いでしまう。
はじめっから失敗するつもりで物事に取り掛かる人はいないと思うが、もしかしたらの可能性を少なからず考えるとは思う
けれども、このように「自分が間違える可能性を過小評価する傾向」こそは「大失敗への王道」へ進んでしまっている
思うに,無謬性とは市民と官僚の共同幻想である。無謬性を要求するのではなくプロフェッショナルとしての矜持がこの無謬性をもたらし,
市民は数百年も続くお上への崇拝にも近い信頼がこの幻想を現出させているのである。
働いている人間も人間であるため無謬などということはありえない。それを目指すことはできるが無謬を求めることもまたありえない要求であることを認識するべきであろう。
上に書いたものは、今の時代が作ってい待った「無謬性」だと思っている
ただ、何かを始めるときには少なからず無謬な部分が必要だとも考えている。
歴代の何かを成し遂げた人物も「これは間違いないものだ」という確信のもとに行動してきたからそ、やり切れたんだと思う。
自分の中に「間違いないもの」があるからこそ、その人個人の魅力が出てくるんだと思う、逆にどうだろう、ほかの人に合わせてばかりで自分が確立していない人
どっちが一緒にいて面白いだろう
僕は前者のほうが好きだ
(僕は学生の時に後者の人物だったと自覚している、自分でも思うがつまらないよ)
最後に言いたいことは、自分の中に一本ぶれない確固たる何かがある人は、どんなことがあっても、どんな時代が来たとしても、強いと思う
その根っこの部分はみんな似通っているものだと思う。
書き始めの時は、なに書こうって思っていたが、意外と何とかなるもんだ
改めて、止まっていては何も自分の中で変化するものがない、とりあえず動いてみるからこそできるものがあるってことを再確認させてもらった。
ここまで読んでくれてありがとう
それではまた明日☽